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【教師の話ネタ】「先生の話」に使える、「偉人・有名人・変人」エピソード。

「教師」という職業は、とにかく「話す場面」が多いという特徴があります。

「朝の会」や「帰りの会」。「学年集会」、「保護者の向け」に話すなんて機会もあるでしょう。

そんな「話をする職業」であるが故に、「何を話すか?」ということは、意外と「教師の悩みの種」となっています。

そんなお悩みを解決するための「話ネタ」をまとめました。

ぜひとも、「子どもの実態」や「伝えたい内容」に合わせて「話ネタ」を使ってくださいね。

🔽「子どもの実態」や「場面別」で使える「教師の話ネタ」はこちら。

目次

【教師の話ネタ】偉人・有名人の「努力」編

✅デビッド・ベッカム

デビッド・ベッカムは、イングランド代表として歴代最多の115試合に出場しています。

また、代表のキャプテンを6年間務め、3つのワールドカップでゴールを決めました。

世界トップの技術をもつベッカムですが、フリーキックとクロスの精度は間違いなく世界一。様々なスーパープレーで伝説と化したプレーヤーですが、その中でも特記図べきは2001年のイングランド対ギリシャ戦でしょう。

少なくとも同点にもちこまなければ、イングランドのワールドカップへの道が閉ざされてしまうという大事な試合で、1対2でリードされるという絶体絶命の展開。

しかし、奇跡は起きたのです。

後半アディショナルタイムでのフリーキック。

ベッカムが蹴ったボールは、4人のギリシャ選手の頭上を越え、約27メートル先のゴール左隅に突き刺さりました。

現役中、ベッカムは通算65回ものフリーキックを成功させています。

この偉業の裏には、ベッカムの努力があることは間違いないでしょう。

6歳の頃のベッカムは、東ロンドンにある自宅の庭でリフティングの練習をしていました。その当時の最高記録は、5,6回でした。しかし、毎日こつこつと失敗を繰り返しながら記録を伸ばしていったのです。

半年も経つと、最高記録は50回に到達。さらにその半年後には、200回。

そして、9歳になる頃には、2003回という新記録を出したのです。時間にすると約15分間ずっとボールを落とさずに蹴っていたことになります。もちろん、終わった時の両足の疲労感は大変なものだったでしょう。

この記録だけを聞くと、「天才だ!」「奇跡だ!」と彼を褒めたたえるかもしれません。

しかし、ベッカムの母親は、取材に対して、

「本当に驚くほど練習をしていました。学校から帰るとすぐに始めて、父親が帰ってくるまでずっと練習をしているのです。そのあとは、父親と一緒に公園へ行って、また練習するんです。とにかく粘り強く物事に挑戦する子でした。」

と話をしています。

当然、うまくいかない姿も母親は見ています。ときに、イライラしたり落ち込んだりするベッカムを見たときもあるそうです。

小さなベッカムは、そのような「うまくいかない経験」を一つずつ積み重ねて新記録を樹立していったのです。

さらに、リフティングだけでなくフリーキックの練習も始めたベッカム。

父親がベッカムとターゲットの間に立ち、カーブを描くシュートを練習させたということです。練習を積み重ねるうち、飛距離は伸び、速度や勢いも増していきました。

その練習の様子を振り返り、父親は、

「2,3年続けると、そこを通る人たちが立ち止まって見ていくようになった。」

と語ったと言います。

父親曰く、「練習で蹴ったフリーキックは、5万回は超えている。」ということです。

【参考文献】📘「失敗の科学」

✅マイケル・ジョーダン

バスケットボールの神様と言えばマイケル・ジョーダンですよね。

彼が、ナイキのCMで語った言葉はとても印象的でした。

「私は、9000本以上のシュートを外し、ほぼ300試合で負けた。ウイニングショットを任されて外したことは26回ある。」

このCMを見た人たちからすれば、「なぜジョーダンは、失敗した話をわざわざするのだろう?」と思ったということです。

しかし、このCMでジョーダンが伝えたかったことこそ「失敗の価値」なのです。

どんなに優れたスーパープレーヤーでも「失敗しない」なんてことはあり得ません。だからこそ、「失敗」に特化して強化していくことで、神の領域までスキルを磨くことができるのです。

ちなみに、ジョーダンの言葉として、

「精神的な強さは、肉体的な強さよりずっと強靭です。私はこれまでいつもそう言っていますし、そう信じています。」

とも語っています。

「失敗」を認め、さらに練習を積み重ね、「神様」と呼ばれるまでの超一流となったジョーダンでも「精神的な強さ」を重視していたということが伺えますね。

【参考文献】📘「失敗の科学」

✅ウィリアム・スミス・クラーク

少年よ大志を抱け

で、有名なクラーク博士。

日本政府の熱烈な要請を受け、1876年(明治9年)7月に、札幌農学校に赴任しました。当時、クラークは、マサチューセッツ農科大学(現マサチューセッツ大学アマースト校)で教えていました。実は、札幌農学校に勤務したのは、1年間の休暇を利用した訪日だったもよう。意外にも9カ月で帰国してしまいました。

そんな短期間にもかかわらず、後世に影響を与えるような名言を残すところをみると、彼の優秀さは言わずもがなでしょう。

そんなクラークさん。1804年にトーマス・ジェファーソン大統領の秘書であるメリウェザー・ルイスに選ばれて2年半にわたる探検に繰り出したのです。

探検の目的は、「大西洋から太平洋へ結ぶ航路を開拓すること」でした。

当時は、地図に記載されていない未知の土地。地図製作に長けた探検家としてクラークが指名されたのです。

未知の世界に乗り出した探検家たちは、日々、過酷な試練に耐えつつ進んだが、現在のアイダホ州北部に位置するピータールート山脈の険しい山々まで来たとには、さすがに疲労困憊。

食料も底をつき、精神的にもぎりぎりの状態であったが、「太平洋にたどり着くにはこの山脈を越えるしかない!」と苦渋の決断。

もともと、厳しさMAXの行程であることは予想済みだったが、先遣隊が道を見失うという痛恨のミスも重なり、山の中を何日もあてどなくさまようことに。

連れていた馬を1頭殺して食べただけでは食いつなげず、なんとロウソクを食べるという強硬手段に。

さまよいながらも前に進み続けること11日。

一行は、ついに山の反対側へ到着。先住民のネズ・パース族の助けもかりてコロンビア川に出ると、ついに太平洋までたどり着くことができたのです。

そして、未開の地の貴重な情報を持ち帰ったのでした。

完全に困難が待ち構えていることが確定している状況でも、その困難に恐れおののくのではなく、前に進み続けるという選択が、大きな成果につながったのです。

【参考文献】ルーキー・スマート

【教師の話ネタ】変人・奇人の「奇行」編

✅妻ときっちりと「契約」をしたアインシュタイン

「天才と言えば?」と聞かれたら、多くの人がアルバート・アインシュタインさんを思い浮かべるのではないでしょうか。

彼の思索からは、常人では理解できないアイデアが次から次へと湧いてきたのでしょう。

その発見は、アインシュタインさんのとんでもない「集中力」と途方もない「時間」から生まれたのでした。

そんな「集中力」と「時間」を要する日々を送っているのですから、周囲の人たちもとんでもない影響を受けたことは想像にかたくありません。

特に、直接的な被害を被ったのは家族のよう。

結婚生活が破綻しかけると、アインシュタインさんは妻に対して「契約書」を提示しました。そこに書かれていたことは、

・私の服と洗濯物がすぐ使える状態で整えられていること
・私の寝室と書斎がきれいに整頓され、とくに机は、私意外が使用することを禁ずること
・私が要求した場合、私に話しかけてはならない

等々、かなり厳しめの契約を結び、結婚生活はきっちりと破綻をむかえたのでありました。

離婚後は、子どもたちと会うこともまれになったということです。

長男のハンス・アルベルトさん曰く、

「おそらく、父が唯一断念した研究課題は、この私であろう。」

という言葉からは、アインシュタインさんの狂気ともとれる目的意識が感じられますよね。

✅栄誉よりも仲間と数学を楽しむことを選んだ数学者

ぼろぼろのスーツを着て、二個のスーツケースをもち、世界各地を旅しながら「数学」に命をかけた男、ポール・エルデシュ。

世界25か国を旅しながら、各地の数学者と交友を深め、というかほぼ”ひも”のような状態で、友達の家に転がりこむ。

本人は、ありとあらゆる手段を使って睡眠時間を3時間まで削り、起きている間はずっと数学に没頭していたというのですから、奇人・変人のにおいがぷんぷんしますよね。

詳しくは、こちらの記事を読んでほしいのですが、

エルデシュさんの魅力を一言で表すのであれば、「人懐っこさ」でしょうか。

とにかく仲間と協力して問題を解くことが大好きなエルデシュさん。自分が賞を取るなんてことにはめもくれず、とにかく仲間と共に数学を楽しんだのです。

その結果「エルデシュとどれだけ関わったか」という数値である「エルデシュ数」という概念が生まれてしまうのですから、世界中の数学者から慕われていたことが感じられますよね。

【参考文献】📘天才たちの日課

✅どこまでも自分の音楽にこだわった天才ピアニスト

お客さんの前での演奏をひどく嫌っている演奏家はそれほど多くないのではないでしょうか。

その一人、グレン・グールドさんは、グラミー賞を4度受賞し、アルバムを何百万枚も売り上げた20世紀を代表する天才ピアニストです。

しかし、32歳という若さでコンサート活動の中止を宣言したのでした。理由は、

「人生の後半は、自分のために生きたい。」

というシンプルなもの。

もともと、飛行機に不吉な予感がするという理由でチケットをキャンセルするくらいコンサートに対するモチベーションは低かったもよう。「コンサートの3割はキャンセルした」というのですから、本当に自分のために演奏していたのでしょう。

生涯において約300回ほどしか開かれなかったコンサート。今後は開催しない宣言をした後、1982年に亡くなるまで狂ったようにピアノに打ち込んだ。レコーディング作業に入ると、1日16時間、週に100時間もスタジオにこもり、カレンダーなど全く意識していないようだったそう。

若手のアドバイスに「演奏以外の全てを諦めろ。」と言ったことからもどれだけピアノに人生を捧げていたのかがよく分かりますよね。

その反面、自分の荷物をごみ袋に入れて持ち歩く様子から想像しても、生活能力があったとは思えません。

ピアニストとして才能が開花したのも、両親の親身な支えによってでした。

特に有名なのは、グールドさんが演奏の際に使っていた「椅子」です。

床から30㎝ほどしかないかなり低い椅子で、浅く前のめりになるよう前方に傾斜していました。要求の多い息子のために作られた父親の手作りで、グールドはこの椅子を生涯使い続けました。

世界中のどこへでもこの椅子を持っていくため、あちこちが傷み、しまいには針金やテープでつなぎ止めてなんとか使われました。あまりにもぼろぼろのため、椅子がきしむ音が録音に入り込むほどだったということです。

亡くなった翌年には、グラミー殿堂賞を受賞。

これほどの奇人ぶりを披露しても人気がおとろえるどころか増していったのですから、まさに天才的な演奏だったのでしょう。

【参考文献】📘残酷すぎる成功法則

✅11日間眠らなかった大学生

「睡眠」の大切さは、もはや説明するまでもありません。

人間は寝ている間に、記憶の処理をしたり細胞が生まれ変わったりしています。

では、「ずっと眠らなかったらどうなってしまうのか?」。そんな疑問にチャレンジしてくれたのが、アメリカの男子高校生ランディ・ガードナーさん。

できる限り眠らない、「断眠実験」が1964年に専門家立ち合いのもの、行われました。

その実験結果をさらっと書くと、

「日を追うごとに理解力や分析力、運動能力が低下、次第に正気を失い、目の焦点が定まらなくなる。呂律が回らず言語不明瞭で、記憶が欠落して幻覚や妄想を見るようになった。」

というから、かなり追い込まれた様子。

自分の存在をアメフトの選手だと勘違いしだしたというのですから、もはや夢なのか現実なのか判断つかない状態であったことが予想されます。

「断眠264時間12分」という記録を打ち立て、ギブアップ。

この記録が未だぬりかえられていないのは、あまりの危険性故、二度と実験を行ってはいけないという決まりができたからなのです。

気になるガードナーさんのその後ですが、

「約15時間続けて眠り続けた後、これといった後遺症はなく、普通の生活に戻った。」

というから驚きです。

11日間眠らなかったダメージが、15時間の睡眠で回復したことに人間のすごさを感じますよね。

【参考文献】📘賢者の睡眠

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